中モズローンテニスクラブの概要

中モズローンテニスクラブ概要について

芦ヶ池の時代

昭和45年頃の芦ヶ池テニスコートの写真

昭和45年ごろ、南海電鉄が中百舌鳥にあったテニスコートや、隣接していたゴルフ練習場等を住宅公団に売却することが決まり、中モズローンテニスクラブは存続の危機に立たされました。

大切なクラブライフを続けるために、様々な案が浮上しましたがなかなか妙案はみつかりませんでした。

当面活動するコートとして、隣駅である百舌鳥八幡駅(南海電気鉄道高野線)の目の前にあった芦ヶ池テニスコートが候補に上がりました。

南海電鉄の難波駅に店を構えている高島屋所有のテニスコート(2面)であり、それの借用を申し入れることをお願いする事とし、理事の方が動いて一応の了解が得られました。ここから数年間芦ケ池コートの時代が始まります。

昭和47年になると、大阪府が浜寺公園の中に10面程のクレーコートを建設することになり、そこへの移転をする方向で交渉が進められました。

コートは間もなく完成し、一応浜寺へ移転することになり、中モズローンテニスクラブは継続できたかに見えました。しかしコートは公共の設備であり、民間クラブに専用権を与えることはできないということで、クラブ名称を『中モズローンテニスクラブ』と称してはならないという事になりました。

止むなく『浜寺テニス教室』というクラブ名に変更しました。 毎週日曜日のテニスコートを数面確保する為に役員の方々は大変なご苦労がありました。

次第に会員は浜寺へ行く事をやめ、芦ヶ池コートでプレーする事が多くなってゆきました。

それから1年もしない内に、高島屋の社員から苦情が出ているという申し出があり、芦ヶ池コートの活動もいよいよ困難になってきました。

著者 宮道 繁
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