中モズローンテニスクラブの概要

中モズローンテニスクラブ概要について

中百舌鳥の時代

昭和12年の中百舌鳥総合運動場の航空写真

中百舌鳥総合運動場(昭和44年廃止)昭和10年南海電鉄開業50周年記念事業の一つとして、堺市中百舌鳥町に総合運動場を建設することが企画されました。

極東オリンピックのテニス選手として活躍された南海社員の松浦竹松氏が建設主任を勤められ工事を完成、昭和12年4月に落成式が行われました。中百舌鳥総合運動場は陸上競技場、野球場、テニスコート、サッカー・ラグビー場、相撲場、サブトラック、クラブハウス等からなっており、総面積は18万平方メートル、東洋一の運動場と謳われました。

関西のスポーツのメッカとして、日本陸上競技選手権大会を始め各種目の大きな大会がたびたび開催されています。

開設時のテニスコートはローンコート(天然芝生)1面とアンツーカーコート21面の計22面でした。後に中百舌鳥駅に近い場所にコートが増設され合計40面になりましたが、やがて元の22面に戻りました。

全日本選手権大会(昭和27年)、全日本学生選手権大会(昭和21、31、32、34、36年)をはじめ数々の重要な試合が行われました。

中等学校テニス選手権大会は第1回(明治41年)が浜寺コートで開催され、その後も毎年浜寺で行われて来たのですが、昭和12年に中百舌鳥総合運動場が開設されると、試合会場はこちらに移り、以後毎年中百舌鳥総合運動場で開催されました。

この大会は昭和23年の学制改革により高等学校選手権大会(インターハイ)に名称が変更されました。昭和29年には地元の三国ヶ丘高校(松浦督、中村靖之助、戸堂博之、前田敬一鈴木寿之水野邦雄)が優勝しました。またダブルスも松浦・中村組で優勝しています。

このメンバーを含めて、この頃の同校の庭球部員の多くは中モズローンテニスクラブに入会し、当クラブでよく練習していました。なお、松浦督氏は前記の松浦竹松氏の次男で後にデ杯選手代表(昭和32、33、34年)となり、親子二代の国際選手として活躍されました。
また昭和33年には全日本ランキング(一般)単1位複2位の栄冠を得ておられます。

中百舌鳥総合運動場竣工と同時に昭和12年、中モズローンテニスクラブも発足しました。22面のコートのうち南東部分の5面がクラブ専用コートとして使用されていました。

前記の松浦竹松氏は中モズ運動場長、南海ホークス球団社長、大阪球場長等を歴任されましたが、中モズローンテニスクラブの会長も務められ、クラブの発展に大きく貢献されました。

初期の中モズローンテニスクラブには強力な選手が目白押しでした。全日本選手権の優勝者にも多数の方が名を連ねています。
昭和22年に松浦竹松・益田透(中モズ)組、昭和23年は岡田収・田辺信(中モズ・大橋)組、昭和29年には安部民雄・今田正一(稲門・中モズ)組がいずれも壮年ダブルスで優勝しています。
しかし特にすごいのは堀越春雄氏で、昭和15年と17年に村上麗蔵(甲子園)氏と、昭和25年は清水弥次郎(近畿コークス)氏と組んで・一般男子ダブルスで計3回優勝、昭和28年には壮年シングルスで優勝しました。

さらに昭和30年から38年までの間、堀越春雄・鵜原謙造(中モズ、朝日生命)組が9年連続で優勝しています。

堀越さんは葵スポーツ等の名でも出場していますが、同氏は難波で葵というテニスショップを経営しておられました。

私はテニスを始めたばかりの頃、ガットの張替えは堀越さんの店でしてもらっていました。堀越さんはいつも手でボンボンとガットの弾きを確かめたうえで渡してくれていました。

以上は中モズローンテニスクラブの全日本優勝者のみについて書きましたが、全日本、関西選手権、毎日選手権その他の大きな大会でも当時の会員の皆さん達はそれぞれ大活躍をしていらっしゃいました。

昭和29年の全日本選手権やデ杯で活躍した中モズローンテニスクラブの会員

私が中モズローンテニスクラブに入会したのは昭和38年ですが、当時は河本森逸さんが会長で、貴志泰三さん(クラブ内)と神田正三郎さん(渉外)が会長を補佐しておられました。三国ヶ丘郵便局長の桂甫さんが会計で、この四名のスタッフは長い間続いていました。

日本電炉の鈴木義一社長や、三宝伸銅の久野晴夫社長も週末には、たびたび当クラブでテニスを楽しんでおられました。

当時、中モズローンテニスクラブにはこれらの方々をはじめ、益田今田今村宇野岩尾池上さん等が老壮級(55歳以上)の強い選手が多士済々でした。

関西の老壮級の団体戦で中モズローンテニスクラブAと中モズローンテニスクラブBが決勝を戦うのが常で、中モズは『老壮クラブ』やと、よく揶揄されていました。

現在のスポーツ界では年齢別の大会が盛んに行われていますが、テニスはその先駆者であったと言えるでしょう。

当時はまだテニスクラブの数が少ない時代で、関東や関西のテニスの強豪校で活躍された方々が卒業後に多数、中モズローンテニスクラブに入会してこられました。

明大卒の高田、小林、橋本(弟)、森田、太田、関学卒の橋本(兄)、鈴木、猪崎、藤本などの皆さんで、私などとはかけ離れた素晴らしいプレイを展開しておられました。

中モズローンテニスクラブは数多くの対外試合を行ってまいりました。府外の岡山クラブ、徳島クラブ、岐阜クラブとは毎年〈ホーム・アンド・アウェー 〉で定期戦を行いました。

ご承知のとうり、岡山ローンテニスクラブと徳島ローンテニスクラブとは今も定期戦が続いています。

大阪市の城南クラブ(府庁・府警)や造幣局、堺市の福助足袋(現:福助株式会社)や三宝伸銅とも頻繁に親善試合を行いました。前出の若手の強い選手も適宜出ていましたので、「中モズはいつもちょうど勝つようなメンバーを出してくる」とよく言われた事を思い出します。

関西の強豪甲子園クラブや神戸クラブともよく親睦試合をしました。 中モズクラブは昭和31年第1回全国親子ダブルス大会を開催しました。この時にはあの清水善造氏をはじめ村山長一、松浦竹松、木村雅信などの名選手の親子ベアーが出場されました。

後年にはいくつものクラブ等により親子大会が催されるようになりましたが、当時は中モズローンテニスクラブに遠慮してか他では行われず、中モズローンテニスクラブの親子大会が唯一のものであり、毎年全国から有名選手が集まって盛大に行われ、当クラブが中百舌鳥総合運動場の地を離れるまで続けられました。

昭和31年の第1回全国親子ダブルス大会の写真

昭和30年代に南海電鉄が中百舌鳥総合運動場の閉鎖を決め、各種運動施設は順次撤去されて行きました。

テニスコートも中モズローンテニスクラブの5面を残すのみとなり、数年後からは借地料も受け取らなくなりました。

中モズローンテニスクラブはクラブを解散するか、または存続する方法があるか模索を続けましたが、最終的には昭和45年、芦ヶ池コートに移転することになりました。

中百舌鳥総合運動場の跡地は、現在中百舌鳥公園団地、中百舌鳥小学校、中百舌鳥中学校等になっています。

著者 今井 直美
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